Wednesday, March 11, 2009

ロス暴動

1991年4月29日月曜日。 何てことない普通の週の始まりだった。カレッジでの授業をを終え、夕方家に戻ってきてテキストを眺めながらその日にいわゆる「ロドニーキング事件」というスピード違反をした黒人を大勢の白人警官がこん棒や懐中電灯で捕まえたフリーウェイ脇で殴る蹴るの暴力を近くに住む住民がビデオで撮影しており、それが全米で公開され大騒ぎになった。その騒ぎで4人の警察官が起訴され、4月29日にその判決が下されることになっていた。テレビを見始めたときには既に無罪が発表されていた。 ただ問題はこのあとだった。 この判決を不服とした黒人たちが暴徒と化してまずはロスアンジェルス・ダウンタウンのどこかのビルを襲撃を皮切りに多くの黒人たちがあらゆるビルを襲撃し始めた。白人、黒人の人種差別の溝は十分理解していたのでこんなこともあるだろうと思っていたし、法で世の中を押さえ込む米国だから、警察などが鎮圧するだろうと、さほど気にしていなかった。 夕方になり食事の準備をしながらテレビを見ているとチョッパー(ヘリコプター)からの撮影された映像がテレビに映し出されていた。大きなトレーラーが信号待ちしているところに黒人たちがそのトレーラーを襲撃し、白人の運転手を引きずり下ろし暴行を加えているのである。その交差点の周りの店では暴行を加えようとする黒人たちと白人を助けようとする黒人たちが右往左往しているのが映っている。場所を聞くと自分が住んでいる場所とダウンタウンのちょうど中間辺りで少しだけ不安が高ぶるをの覚えたが、それはそれでテレビに映る遠い出来事という印象だけで、その晩はそれだけのことだった。 翌日も何も気にすることなく朝からカレッジへ行き授業を受けていた。確か、お昼をキャンパスの芝生の上で終えて友達とたわいもない話をしていたところ、キャンパスを駆け回る事務員が大声で「すぐに家に帰れ!」「サウスセントラルLAじゃ、大変なことが起こってる!!」そんな注意を聞いて、そういえば、昨日の黒人たちの暴動はどうなっているのかと思い出した。ロス自体はごく平らな街なのでそこにいるだけはあまり遠くを見渡すことができないが、駐車場から車でキャンパスの外へ出ようとしたら道は既にロスアンジェルス中の会社や学校から帰宅する車で大渋滞で通常5分で帰れる道のりを40分もかかって家にたどり着いたのを覚えている。帰宅途中の車の中から見えたのはダウンタウンから南の方向に黒い煙が何本も立ち上り、ラジオでは緊急放送ですぐに帰宅し、家から出ないように呼びかけていた、いわゆる外出禁止令である。その時やっと、テレビの映像と現実が一致して自分に迫る危機を理解できた感じがした。それまではテレビの映像はあくまでもテレビの映像であり、身近なものには捕らえることができなかったが、あの立ち上る何本もの黒煙を見ながら帰る家路は恐怖そのものであった。帰った後はまずは家から出れないことを想定して食材がどの程度あるか確認し、テレビを見ながらジッとしてるしかなかった。いつまでこの暴動が続いたのかよく覚えてないが、日本では味わうことの出来ない経験のひとつだった。特にこのロス暴動で主役となったのが韓国人経営のストアーが黒人居住区にあったので襲撃の対象となり、黒人と韓国人の溝がいっそう深まった事件だった。白人や黒人などからしたら日本人だろうが、韓国人だろうが、中国人だろうがどれも同じに見えるわけで、そうなると自分に降りかかるだろう危険は非常に大きいもので、全く人ごとじゃないわけです。テレビを見ると韓国人のストアー店主が銃を構えて黒人に対して連射している。後から知ったことだがこの時代にアメリカに住む韓国人たちはベトナム戦争帰りで戦争に参加したが代償にアメリカ居住を許された人たちが多かったそうだ。それもそのはず、銃の撃ち方がさまになっていた。黒人と韓国人との溝はその辺からスタートしているらしく、今まで黒人地区で経営されてたストアーなどをベトナム帰りの韓国人たちが取って代わり、単純労働をとして働いた黒人たちから半分の賃金で働くヒスパニック系の人間を雇用しはじめた頃から溝が深まっていった。本来ロドニーキング事件から黒人の怒りの対象だった白人から、さらに韓国人へと拡大していった部分からアメリカ自体に根深い人種問題を考えさせられた出来事だった。

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